初心者のための登山とキャンプ入門

両神山・辺見岳バリエーション登山

辺見岳への道の様子

2012年8月の21日、サンサンと太陽が降り注ぐ真夏、僕とオノピーは両神山の山中をさまよった。目的地は両神山の南東に位置する辺見岳。どんな山だろうか?僕もオノピーも良くわからなかったが、熱い情熱を持ってその頂きを目指した。まとわりつくハエやハチを追い払い、ピッケルで急登をよじ登り、岩を掴んでは岩壁を乗り越え、僕らの体は汗と泥にまみれた。そして小野さんの滑落。2012年の大冒険。素敵な思い出になった。

両神山・辺見岳登山のコース情報

両神山エリアの地図とGPSのログ
小野さんの携帯で記録したGPSのログ

カシミールの地図上に地名の記載がないので説明しづらくなってしまいますが、両神神社の駐車場からスタートし、会所で沢を越え「キワダ平沢」の東側の尾根を南へ登りました。この尾根がぶつかったところが辺見岳です。
ここから北西へ両神山方面へ行き、「一位ガタワ」と呼ばれるところで清滝小屋に下ります。それからは薄川沿いに下山しました。

ピッケル持って両神山へ

2012年8月20日月曜日の朝。小野さんから連絡があった。「どうしようか?」と。そう、僕は小野さんと21日に登山をする約束をしていたのだ。僕が韓国旅行から帰ってきて元気ならば登山をしようと。

旅行から帰った翌日だったけれど僕はすこぶる元気だった。韓国でいっぱい動いて大量のポークとシーフードを食べていたので、むしろ普段よりも体がキレていたかもしれない。
そしてもちろん小野さんとの約束も忘れていなかったので、「行くなら富士山かなあ」、とぼんやりと頭に思い浮かべていた。富士山は日本一高い山だけれど、急の登山でも何とかなる山。既に下調べはしっかりとしてあるし、人もたくさんいるし、食べ物も飲み物も心配することがない。

そんなテンションで小野さんと電話をすると、彼の提案した山はなんと両神山にほどちかい「辺見岳」と言う名の恐ろしくマイナーな山だった。たしか、小野さんと最後に一緒に登った山は両神山だったはずなのに、また両神山。林道の運転に疲れ、山のひどいアップダウンに疲れ、膝を痛め泣きながら下山した両神山。できるならもう二度とあのエリアの山を登りたくない、と僕の中でネガティブなイメージが張り付いている山だった。

でも小野さんなら両神山を提案するかも知れないな、と考えていないわけでもなかった。なので驚きよりもやっぱりそうきましたね・・・と言う感じの方が多かった。 と言うのも、小野さんの性格上、持っている地図の山域しか選択肢がないのだ。その地図とずっとにらめっこをし、等高線を追い尾根を追い、頭でイメージして、その中で面白いルートを導き出すのが小野さんのスタイルで、穂高が素敵らしい、じゃあ行きますか、とはこの人の場合ならない、と思う。ちなみに彼が現在所有している地図は高尾と両神山エリアのみである。

まあそんなこんなで、僕は多少富士登山を推してはみたものの、それはすぐに引っ込めた。どちらかと言うと僕が登りたい山より小野さんが楽しむ山の方がいいと思っているし、最近は冒険的な登山をしていなかったので、その良くわからない「辺見岳」でもいいかなあと思い始めていた。

そして辺見岳登山の準備は始まった。と言っても両神山エリアで登山をするなら前夜泊だから、あと数時間後の出発だ。

そうそう辺見岳。どこら辺にあるお山かと言うと、両神山の剣ヶ峰から南東方面に伸びる大きな尾根上、2.5キロほどに位置している小さなピークだ。山と高原地図には辺見岳(二子山)と記されている。標高は1350mあたりか。その周りには一般的な登山道などはない。廃道ならありそうな様子だけれど、まあ普通の人はここに登ろうなんて思わない様な山だ。

と言うことなので、僕らはいつもと違った装備を用意した。小野さんはカンプのピッケル「コルサ」を購入し、夏で水の消耗もかなり激しいと考えプラティパス2をもう1つ買い求め、そして万が一の事も考え、浄水器の「スーパーデリオス」を購入した。僕は以前赤岳で一回ポッキリ使用したピッケルブラックダイヤモンドの「レイブン プロ」と、引越しに一回ポッキリ使用したベアールの8mmのザイル、カラビナ数枚とハーネスを用意した。

なぜここまでの装備を用意したかと言うと、両神山は崖が多いからロープの出番があるかも知れないと考えたからだ。ロープの正しい使い方なんて知らないけれど、ないよりはあったほうが良い。
ピッケルの出番は充分にあるに違いない。どうせありえない角度の直登を繰り返す事になるだろう。ピッケルを使わないと体が持ち上がらない様な急登を。

そして僕はもう一つ、密かに富士山の地図をザックの奥に潜ませておくことを忘れなかった。小野さんが辺見岳登山に弱気を見せたら、すかさず富士登山を提案する予定だ。

会所からキワダ平沢へ入る

両神山も2度めなので慣れたものである。前回と同様家の近くで小野さんをピックアップすると、外環道、関越道を走り、花園ICで下りた。そしてコンビニで食料を買い込み両神山荘方面へ。前回は八丁峠から両神山を登山したので目的地は違ったが、今回も同じ様な狭い林道を走らなければならなかった。

両神神社の駐車場は車を10台停められるほどのスペースだ。そして前回と同じく平日なので、やはり一台の車も停まっていない。幸せ。
テントを張るとご飯を炊き、コンビニで買ってきたお惣菜と一緒に食べた。星空も綺麗だったし、暑くも寒くもなかったからテントの外で食べるご飯はとても美味しく感じた。小野さんも陽気にピッケルで空を切り裂いた。

両神神社の駐車場で食べた夜ご飯
炊いたご飯とお惣菜。煮物が美味しかった。

食後は酒を飲み、ヘッドランプをつけて辺りをぶらぶらした。確か両神山荘の手前にも3台ほど停められる駐車場があって、その隣にはとてもきれいなトイレがあった。ちなみに僕らが停めた両神神社の駐車場の近くにもトイレがあったが、ありえないほどの汚さだった。

明日は5時起きだ。小野さんと僕にしてはかなり計画的な起床時間。なんてたって明日はバリエーション登山。どれくらい時間がかかるかなんて僕らにはわからないから、とりあえあずの早起きだ。

両神神社の駐車場の様子
両神神社の駐車場

朝5時、テントから外に出ると、遠くの方で地べたに座った小野さんが、タバコの煙をウマそうに空に吐き出していた。良く眠れたのだろうか、そうではなかったのだろうか。わからなかったけれど、とにかく彼は穏やかな表情で穏やかな話し方をした。今日は楽しい登山になりそうだと思った。

あれやこれや準備をして6時過ぎに駐車場を出発した。

僕のザックと小野さんのザック
僕らの装備。いつになくモノモノしい。

駐車場の前の階段を登り、両神山荘の前の道を西にしばらく行くと両神神社がある。両神神社で今日の登山の安全を祈願すると、僕らは道なりに歩を進めた。樹林帯の歩きやすい道だ。

両神山荘前
両神山荘の前にて
両神山荘から会所までの登山道
両神山荘から会所への登山道

ちょうど30分ほど歩いた頃、「会所」と名付けられた場所に到着した。今まで沢を見下ろしながら歩いていたけれど、この会所で登山道は沢に接近し、そして沢を越える。広々とした場所でテーブルとベンチもあって休憩に良さそうな場所だ。
そう、そしてこの会所から本日のバリエーション登山が始まる。ここから「キワダ平沢」を入っていき、適当なところでキワダ平沢の東にある尾根に入ろう、と言うのが今回の小野さんのプラン。なので入り口であるこの会所が非常に重要で、絶対に間違えたくはない場所だった。

会所の様子と橋
会所

さあどこから沢を越えようか、とぼーっと考えていると小野さんが、ここじゃなかろうかと言う場所を見つけた。 確かに、地図と見比べてみても正しい様な気がしたし、飛び石伝いに沢も簡単に越えられそうだった。それにしても小野さんの能力はすごい。

沢の向こうが果たしてどの様になっているのかはわからなかったが、とりあえず進んで見ようか、と言う事になった。そして7時、飛び石をピョンピョンと渡り終えると、辺見岳バリエーション登山スタート。

沢を渡る小野さん

三角点1089とハエとハチ

沢の右岸を恐る恐る歩く。早いとこ尾根に乗っかりたいなあと考えていると、早速登れる場所を発見した。急登だけれど足跡もついている。この辺りは沢登りをしている人がいるようだけれど、その人達が通る道なのだろうか。獣道だろうか。まあとにかくラッキー。よいしょよいしょと尾根の上を目指して登った。

急登を登る小野さん

するとすぐに尾根の上に辿り着いた。
素晴らしい。好スタートを切ったと言えるだろう。僕らが登山前に危惧していたのは、「会所からうまく沢を越えられるか」ということ。そしてもう1つは「狙った尾根に乗れるか」という2点だった。しかしそれらを軽々クリアすることができた。尾根にさえ乗ってしまえば、あとは外さない様に登るだけでいい。
ちなみにこの尾根、名前はわからない。と言うことで文章上便宜的に「オノピー尾根」と名付けようと思う。

難所を越えた喜びとともに一服をすると、ザックからピッケルを外して意気揚々と尾根歩きスタート。頭の中では早いテンポのロックミュージックが流れている。好戦的な音楽。いい感じだ。

キワダ平沢横の尾根の上

僕らの最初の目的地は三角点1089。オノピー尾根の入り口から1.5キロ南に登ったところに位置している。山と高原地図には1089の記載はないが、地形図には1089と書かれている。そこを目指してオノピー尾根を南へと登った。

オノピー尾根は細い尾根だけれど、急過ぎて登りにくいと言う事はない。ピッケルを使うほどでもない角度の尾根だ。それよりも尾根上に生えた低い木立がじゃまだし、何よりも虫が鬱陶しい。ハエと黄色いハチみたいのがずっと僕らの後をずっとつけてくる。静かな登山を楽しみたいのに、聞こえるのは「ぶーん」という音ばかりだ。彼らが危険を示唆しているのではないかと不安になった。

辺見岳への尾根

尾根も急になりピッケルが必要になってくる頃、ハエはその数をさらに増した。でもハエはいくら増えてもいい、嫌なのはやはりハチである。ハチ1匹でハエ20匹相当分の羽音でうるさいし、つかず離れず僕らから1メートル離れたところ辺りでひたすらホバリングをしている。いなくなったと思えばまたすぐにやってきて、僕らが何か間違った事をしないか、とずっと監視されている様な気分になった。自分が侵略している宇宙人の気分だ。実際そんな様なもんなんだけど。まあとにかく、僕らの会話の中心は「ハチが鬱陶しい」というものだった。

下山時に迷いやすそうな場所にはケルンを置いたり目印を置いたりして進んだ。そして9時30分頃、僕らは三角点1089に到着した。(探したけど三角点を見つける事はできなかった。)

三角点1089でパンを食べる小野さん
広々とした三角点1089で休憩

いやあ嬉しい。何も珍しくないどこにでもあるハエの多いピークだけれど、道のない山をこうして登ってきて、ちゃんと目的地に辿りつけた事が本当に嬉しい。いつもは登山の帰りがけにちょろっとバリエーションをやるくらいだから、今回1からバリエーションをスタートして目的地に辿り着いたってのは、本当に自分にとって快挙。大きな一歩だ。もちろん携帯のGPSも使っているけれど、今後も自分の行きたい場所を好きな様に歩けるんじゃないだろうか、なんて思うとすごくわくわくする。もちろん僕一人ならこんな登山は絶対にしないし、できないとは思うけど。

1089では軽く食事をとって休憩し、僕らは辺見岳の山頂を目指し再びオノピー尾根を進んだ。

高い壁を巻き辺見岳の山頂へ

三角点1089から辺見岳へは、一度尾根を下りそしてまた登る。地図にそうやって記されているように、僕らはオノピー尾根を下った。しかし数分後、僕らが目にしたのは尾根に立ちはだかる絶望的な高さの壁だった。

僕はすぐ「あー、これでもう冒険はお終いか」と思った。こんな時のために用意しておいたサブプラン「ロープの練習」をして平和に帰ろう、と思った。
しかし尾根の先端に立ち谷底を覗いてみると、なんとなくこの大きな壁を巻けるんじゃないだろうか、と言う気もする。一度思いっきり下りなきゃならないけど、そのうちに尾根に登り返せる場所が発見できるんじゃないだろうか、と。
小野さんと話し合った結果、少し下って様子をみて、それから考えようという事になった。

急斜面を下る小野さん
ものすごい急斜面を小野さんが下る

小野さんを先頭に日の当たらない暗い急斜面を下る。落石をしない様に気をつけ、それから適当な場所で尾根を巻き始めた。獣道だか人が歩いた跡だかわからないけど、わりかし歩きやい。しかし左手の尾根の斜面があまりにも急すぎて、登り返せるのかどうか不安になった。

岩壁を巻く小野さん
岩壁を巻く小野さん

しばらくすると小野さんが、「ここどうかなあ」と斜面を見上げながら言う。僕もその尾根を見て、うん、ここなら登れそうだと思った。かなり急な斜面だけれど登れない事はない。小野さんはすごいなあと感心。僕ならスルーしてしまったかも知れない。

オノピー尾根の上へ帰るぞ、と気合を入れ斜面を登る。しかしこんな場面はもうピッケルがなきゃ完全に登れない。丁寧に登る様心がけたけれどそんなものは無理で、後半はピッケルのヘッド部分を持ちピックを斜面に突き刺し、スパイダーマンの様に這って体を持ち上げて登った。

急登をピッケルを使って登る小野さん
ピッケルがあって本当に良かったと何度も思った

そして僕らは再びオノピー尾根上に帰ってきた。やった。越えられないと諦めかけていた壁を巻くことができた。

うしろを振り返ると尾根の先端には巨大な壁がデーンと立っている。さっきは一瞬登ってみようかなと思った壁だったが、無理して登らなくて良かったと一安心。しかし先ほど尾根を巻き始めてから、かれこれ30分も経過している。少し進むだけでこれである。やれやれ。

そして僕らは再び一服をした。タバコを吸い過ぎの感もあるが、壁を巻けた喜びと再度オノピー尾根に戻って来れた喜びを噛み締めた。やっぱり尾根の上は陽が当たって気持ちがいい。尾根を巻いている時の暗さと不安感がない。
一服をしながら、五月蝿いハエを追い払いながら、僕と小野さんは地図を見ながら辺見岳への道のりを見当した。
どうやら等高線の詰まった場所は岩肌が出ている崖だろう、と言うこと、そして今後それが少なくとも2回は出てきて巻く必要がありそうだと言うこと。それと尾根と尾根の切れ目の部分、僕らがちょっとした広いスペースだとイメージしていたところはどうやら崖のようだ、という事を話した。そして辺見岳を目指して再び登りはじめた。

辺見岳への尾根の様子2

日も高くなり少し暑くなってきた。そしてオノピー尾根は僕らの想像した通り、等高線が詰まった箇所では崖になり、その都度下って崖を巻いては尾根に登り返さなければならなかった。前回両神山を登った時もそうだったけれど、巻く行為って本当に疲れる。10メートルくらいガーッって下ってそこからまた尾根に向けて直登をする。時間もかかるし、ものすごくエネルギーの必要とする作業だと言うことが身にしみてわかった。そんな事を2、3度繰り返してとうとう僕らは辺見岳の山頂に辿り着いた。

辺見岳の北峰
辺見岳の北峰。狭過ぎて様子をカメラに収められなかった。

初めは辺見岳の北峰らしき所に着き、その後南峰らしき所に着いた。”らしき”というのは、道標も、また山頂らしき印も無いので確信を持って言えないから。そしてそれプラス山頂のみすぼらしさもある。辺見岳の北峰は小さいながらも両神山方面の眺めを楽しむ事ができるが、問題は南峰。狭い山頂の周りには木が茂って眺望が利かないし、それに加えて山頂には大木が立ちそこに立つことさえ許されない。

辺見岳への南峰
辺見岳の南峰。こっちは更に狭く眺望もない。

そんな不満を言いながらも、僕らはとりあえずその付近で昼食をとった。可哀想に辺見岳の山頂は、僕らに達成感がないとか日本百珍山とかボロクソに言われた。相変わらずハエも多いのだ。そんな事も言いたくなる。

辺見岳付近からみた両神山
辺見岳付近から見た両神山。こんなに晴れているのにも関わらず、僕らはほとんど空を見ることはない。

滑落した小野さん

さてこれから下山である。下山には来た道をそのまま帰るか、もしくは清滝小屋経由で帰るかの2つのパターンを用意していた。僕は、この登山を開始する前には来た道、オノピー尾根をそのまま帰ろうと考えていた。と言うのも、清滝小屋経由の下山は距離もあるし、そして何より恐れていたのは両神山方面へ向けての尾根歩きだった。前回の八丁尾根で痛い目にあっていたので、同じ様な凸凹尾根ではなかろうかと腰が引けていたのだ。

しかし僕は辺見岳に着いた時点でやや疲れていて、とてもじゃないけど今登って来たオノピー尾根を戻りたいとは思えなかった。距離を考えればオノピー尾根をそのまま下るのが正解だと思うけど、精神的に疲れる様な気がして、遅くはなるだろうけど清滝小屋経由が楽な気がした。気がするだけで実際は大変なのはわかっているが、一度通った道は長く感じてしまうものなのだ。 あまりにも疲れたら清滝小屋で一泊してもいいんじゃないか、無理して下山を急ぐこともないだろう、という様な話しも小野さんとの間で出た。

進路を西へ。相変わらず思いっきり登ったら思いっきり下るってのが鉄則で、早速僕らは絶壁を避け急斜面を下る羽目になった。昼休憩が効いたのか、僕の体は軽い。前を進む僕は「ここ滑りやすいから気をつけて下さいね」と小野さんに言った。そして小野さんは「はーい」と返事をした。

そしてその直後、「ズサッ!」という大きな音がした。振り返ると5メートルくらい頭上にいた小野さんが滑り、落下しながらも体を反転させているところだった。小野さんが滑落したのだ。小野さんの落下地点から少し外れていた僕は、すかさず落下地点に入った。体が勝手に動いてしまっているだけだ。

全てがスローモーションに見える。
小野さんはものすごいスピードで落下しながらも、木の根っこを掴もうと必死。1つ根っこを掴み損ね、そして2つ目も不発。来るぞ、と思い僕は体を前傾姿勢にとり、足と手に力を込めた。止めてみせようと。
すると僕の2メートル頭上で小野さんは3つ目の根っこをガシっと両手で掴み、その滑落を終えた。辺りはシーンと静寂で包まれた。
ほっとため息をついたのも束の間、頭上から黒い物体がものすごいスピードで回転しながら飛んできた。小野さんのペットボトルだと思った僕は、そいつを捕まえようと手を伸ばしたが、そいつはあまりにも速かったし、あまりにも高く飛んでいた。そして僕の手を飛び越え、「カン、カン、カン、カン・・・」と乾いた音を立てながら深い谷底へと吸い込まれていった。その谷底の深さを見て僕はギョッとした。僕のすぐ近くにこんな谷があっただなんて。ここに落ちていたら生還できなかったろうな、と思った。

小野さんは元気そうだったし、大したケガも無さそうで良かった。リアクションも「こえ~」といつもと一緒だ。しかし、先ほど飛んでいった物体が小野さんのカメラだと言う事実がわかった。そしてカメラを取りに行くには、その谷はあまりにも深すぎた。

そんな訳で小野さんのカメラは諦めたけれど、今思うと取りに行けば良かったなと後悔している。ロープを使ってゆっくり降りればカメラを回収できたんじゃないかと。その時はとにかく、平静を保つ事が重要だと考えていたからそんな事は思いつきもしなかったけど、トライしても良かったかもしれない、と今は思う。少なくとも1時間は必要だったろうけど。

次回小野さんと「カメラを回収する」というテーマでもう一度辺見岳に登るのはどうだろうか。秋の涼しい頃に。そして僕も無くしたカメラのレンズカバーを回収したい。これは絶対に見つからないだろうけど。

襟元を正して、気を取り直して登山をすると、早速僕はズルっと滑って尻餅をついた。さっきの小野さんの滑り方と一緒だ。土だと思って足を乗せるとそのすぐ下に木の根っこが隠れていて、その上に乗って滑ってしまうのだ。いやー危ない。角度がなかったから良いけども、あったら間違いなく滑落だ。

これからどんな大変な事が起こるのだろうかと不安もあったが、それからしばらくはピースフルな尾根歩きが続いた。尾根上に障害物も少なく歩きやすいし、木々の隙間から入り込む西日は柔らかく暖かかった。そしてハエの数もやや減った。

しかしピースフルな尾根も時間と共にその様子を変え、岩肌が多く見られる様になった。尾根が細くなると崖になり、そしてそれを巻いては尾根に登り返して、を繰り返しながら進んだ。三笠山辺りではクライミングの様にして壁を巻くこともあった。

辺見岳から両神山への尾根の様子2

道を失う

ゆっくり順調に進んでいた僕らだが、三角点1418の手前辺りで道を失った。道を失ったってのは大げさかもしれない。正しくは巻き方を間違った。三笠山から下ると尾根の上にいつものような大きな岩山がでてきた。それを巻こうと北の斜面を下ったのだが、必要以上に下り過ぎてしまったのだ。小野さんが途中「遭難コースだね」何て言ってたけど、僕は「下れば巻けるだろう」と夢中になり、ほぼ垂直の斜面を無理やりに下ってしまった。
そして結局下れど崖で巻くことが出来ず、下りてしまった垂直の斜面を再び登らなければならなかった。その後巻ける道は見つかったものの、しばらくしてまた間違った尾根に突っ込んでしまった。 時間も16時を過ぎ疲れていたのだろうか、冷静さを持たず地図とコンパスを確認することもなく突進してしまった。小野さんがいなかったらアホみたいにもっと突っ込んでしまった事だろう。

急斜面を下る小野さん
急斜面を登る小野さん

一旦落ち着いて現在地を確認できたのだから、もう一度来た道を登り返せば良かったのだけれど、僕は前方にある尾根に向けて直登することを提案した。冷静さがなかったのかショートカットしてやろうと思った。今まで失った時間を取り返そうと。
そして僕らはその斜面にとりついたのだけれど、遠くから見るのとは違って尾根への斜面はあまりにも急過ぎた。本日最大級の厳しい角度の斜面。ピッケルを地面の奥深くまで突き刺し、体を懸命に持ち上げて登った。小野さんに申し訳ないなあ、ショートカットすべきじゃなかったなあと思いながら。

体は不思議とキレていたけど、精神的にやや追い込まれつつもあった。今僕らが目指している尾根が間違っていたらどうしようと。僕は2連続で道を間違って、1時間近くも時間をロスしているに違いない。これで間違っていたら心が折れるかもしれないなあと。しかも北側の斜面には日が入らなくて非常に暗いし、足元にはわけのわからない巨大なシダ植物が群生していて不安感を増長させた。小野さんは「食われるかと思った」と言っていた。そしてハエは増えるばかりで、僕の耳元で「危険だ危険だ」とわめき散らしていた。

そんな不安を抱きながらも、90度と言えそうな急斜面を登り終え尾根の上に到着した。ふーやっぱり尾根の上はいい。優しい日が入ってくる。

ふと顔をあげ遠くを見ると、こんもりとしたピークの上に何やら3つの石碑らしきものが見えた。僕は小野さんが上がってくるのを待たず、1人でそこに向かってよろよろと登った。何か確信的な物を見て安心が欲しかったのだ。

一位ガタワ付近の三体の神様

石碑だと思ったものは、3体の神様だった。

3体の神様は優しく僕に微笑んでいる様に見えた。ほっとした。ほんとにほっとした。久々に人間の気配を感じる場所に出ることが出来たし、自分が人間の活動するエリアに踏み入れた事がわかった。そして正しい位置にいるという事もわかった。「よくぞここまでがんばった、君らは無事に帰れるぞ」と彼らが言った様な気がした。そして僕も無事に下山出来る自信を持った。

神様の傍らで安堵の一服をすると、僕らは一位ガタワ目指して尾根を下った。
すると、しばらくして天狗、阿修羅、不動明王の石仏が次々と登山道上に現れた。なんだかゴール前の沿道でランナーに声援を送る人々の様だ。天狗も阿修羅も不動明王も「もう少しだ、がんばれ」と旗をパタパタと振って応援してくれる。いや、あるいは僕らは天国への階段を下っているのかもしれない。

そして僕らは一位ガタワに辿り着いた。一位ガタワには祠と看板、それと何より嬉しい本格的な登山道があった。ちゃんとした登山道なんて早朝に見たっきりだ。平ぺったくてひろくて歩きやすい登山道だ。本当に幸せ。もう少し下れば清滝小屋に辿り着くはずだ。

一位ガタワ
一位ガタワ。尾根と尾根の切れ目。真っ直ぐ行けば両神山だけど、岩壁にぶつかる。

一位ガタワから暗い沢沿いをウネウネと15分ほど下ると、テント場と廃屋と化したトイレが現れた。そしてそこからすぐの所に清滝小屋も現れた。

清滝小屋、そして暗闇のなか下山。

清滝小屋
清滝小屋

清滝小屋は現在休業中の様で、緊急の場合は避難小屋として利用して下さい、と張り紙にある。試しに小屋の中を覗いてみると、広い開放的な部屋でしかも布団なども使えそうだった。わあ、ここが使えるなんて泊まってみたい、と心がときめいた。
清滝小屋の宿舎の中も綺麗だったが、その周辺ももすごく素敵だった。食事を食べるのに適したテラス的なものもあったし、男女別に別れた綺麗なトイレもあった。僕らはここでしばらく休憩し、水場を借りて体を洗ったりした。完全に空は夕方色。時刻は18時だ。

清滝小屋の中

さて、あとは両神神社の駐車場を目指して無心に下るだけだ。コンパスも地図もザックにしまった。何も考えず道をただひたすらに東へ東へと下ればいい。あとは時間が解決してくれる。1時間半も歩けば良いだけだ。

小野さん。清滝小屋の前にて

とのんきに歩き始めたけれど、すんなりと下山することは許されなかった。30分も歩けば登山道は真っ暗になり、ヘッドランプ無しでは歩くことができなかった。それでも普通の登山道を歩いてるうちは問題がなかったが、沢を数回トラバースさせられる事があり、その都度行先を見失った。対岸の木にピンクテープがぶら下がっていたから間違わなかったものの、テープがなければえらいしんどい思いをしたに違いない。それと小野さんのヘッドランプが明るかったのも良かった。どうやら僕の持っているヘッドランプは電池切れの様で暗くて、足元を照らすだけの明るさしかなかった。今回は予定外のナイトハイクになってしまったけれど、いざという時にヘッドランプがこんなんじゃだめだと思う。もちろん予備電池は持っているけど、出発前に電池の残量を確認する必要があると思った。小野さんがいなくて1人だったら、僕は清滝小屋に戻ったかも知れない。

夜の不動明王
暗闇の中に現れた不動明王。目が赤くて怖かった。

そんな感じで沢沿いを戸惑いながら歩きながらも、19時30分には会所に到着した。今朝僕らがバリエーションをスタートした場所だ。

真っ暗闇の会所で一服をすると、それから30分ほどかけて両神神社の駐車場に向けて歩いた。その間小野さんと色々な話しをした。話の内容がほとんど今日の登山の話で、あそこの尾根はどうだったかとか、こうすべきだった、これが必要だとかそんな様な話しをしていた。こうゆう風な登山の話しを出来るのがすごく楽しい。僕らの登山には先生もいないから、自分たちで経験して考えて、そして自分たちの登山の形を作って行くという作業が非常に面白い、と僕は思っている。

会所の橋を渡る小野さん
会所にて。感動の瞬間。

そうして8時10分頃、僕らは両神神社の駐車場に到着した。韓国でアワビを食べまくって来たせいか体はそこまでしんどくはなかったけれど、さすがに疲れている。今朝の6時過ぎにここを発ってから14時間。休憩を除いても12時間は歩いていたんじゃなかろうか。

車の前に座り込むと、自分を締め付けていた全てのものを脱ぎ、体を拭き、新しいTシャツに着替えた。最高に清々しい瞬間だ。辺りは昨夜と同様に暗く暖かくて過ごしやすく、空には沢山の星が輝いていた。

そして僕らはボスの缶コーヒーで乾杯をした。最高に幸せの気分だ。本当に楽しい冒険だった。そして多くの事を学んだ登山だった。