初心者のための登山とキャンプ入門

エベレスト街道との出会い、そして出国

エベレスト街道 トレッキング

1998年6月、22歳の女子2人のエベレスト街道トレッキング日記。ある日カトマンズからの突然な国際電話と「エベレスト行こうよ」の唐突な誘い。貧乏学生は魅惑のバングラディシュにもまれながらカトマンズに向かった。

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旅のきっかけ

最近では海外トレッキングなんてお金を貯めさえすればたくさんのツアーがあるし、行った人の情報もWebでたくさん見れる。でも1998年当時では未知の世界だった。一体いくらお金を出せばそういうところに行けるのか、どれくらい大変な山登りなのか。パソコンはまだまだ30万円もして大学生でも少ししか持っていなかったし、ネットの情報なんて無い時代。頑強な山の先輩から「ネパールに行った」っていう話を聞いては羨ましく感じつつも、自分とは別次元の話だと思っていた。

そんなある日、自宅に国際電話がかかってきた。なんとネパールで暮らしているゆかりちゃんからだ。当時私達は大学4年生になったばかりの春。ゆかりちゃんはその年の秋ごろまでの1年間を、交換留学生としてネパールのトリブバン大学に行くことになっていた。彼女は大学の歩こう会という登山サークルの同期で、マレーシアや韓国の貧乏旅行も一緒にした旅仲間でもある。カトマンズに居るはずのゆかりちゃんが、なぜ。

Skypeなんて無いから国際電話は、高い。急いで要件だけ話した。ゆかりちゃんも街の電話屋さんからかけているという。
「ねーたえちゃん、エベレスト行こうよ」
「いいよ」
就職活動という大きな人生の選択に突き当たって、考えるめんどうから逃れたかった私はすぐに返事をした。

何にもわからなかったけど、ゆかりちゃんが言うには、「私達レベルでも行けるらしい」という。これまで山岳部の先輩たちは「ネパールに行った」と言っていたが、ゆかりちゃんは「エベレストに行こうよ」と言った。まさかエベレストの山頂を目指すわけではないだろうことはなんとなくわかったけど、実際、なにもかもがまったくわからなかった。
「トレッキング」という言葉もまだあまり使われていない時代だったから、ピークを目指すわけでもなく歩くことそれ自体を目的にするっていう楽しみ方も、知らなかった。もちろんエベレスト街道なるものがあることも知らなかった。だけど、ゆかりちゃんがわざわざ海外から電話してきたくらいだから、きっと行けるんだろう。
Eメールも無かったから、打ち合わせはこの後、1回電話しただけとなった。私から電話を掛けて20分位話した。何の割引サービスも申し込まずに自宅の電話から普通に掛けたから8,000円も請求が来て親がびっくりしていた。

大学のゼミの先生に話したところ、「よかろう、君は大いに山をやってきなさい」と快く送り出してくれた。授業はなんとかなるけど、ゼミだけはネックだと思っていた。もうおじいちゃん先生で、なおかつ西洋史という深く長いスケールを扱う分野の専門だ。単位がどうとか就職がどうだとか、もうそういった世知辛いことから達観した、もっともっと大きな次元で物事を見ていたんだろうか。それともうだつの上がらないゼミ生としての私にあれこれいうムダを承知していたんだろうか。

ゼミの講義ではよく登山の歴史と世の中との関わりについて話してくれた。そこには登山道を歩きながら見る景色だけではない広い世界があった。同じ「登山」でも、ヨーロッパの暗黒時代の巡礼の旅からイギリス軍のヒマラヤ超えから登山が日本の大衆スポーツになるまで、本当に奥深い。時代や地域を自在に超えて話をしてくれた。私のゼミ生としての1年間は、そういった話を気分よく楽しく聞いて終わってしまったと言ってもいいかもしれない。

当時、数少ない秘境ツアーをやっていた西遊旅行で飛行機のチケットを買った。一番安いものを、と頼んでバングラデシュ航空のバングラディシュ乗り換えのチケットにした。行きも帰りもバングラディシュに1-2泊するが、そのホテル代は航空運賃に含まれているという。「行けばわかりますよ」担当の人もそんな感じだった。

フライトの日時が確定すると、ゆかりちゃんに電話した。ゆかりちゃんは不在で、下宿先の人と思えるおばあちゃんが出た。めちゃくちゃな英語で到着日と便名を伝え、「ゆかりちゃんに伝言してほしい」と頼んだ。それから出発までは電話で話さなかったので、伝わったのかどうか心配だった。

カトマンズまで

カレー臭がただよいせまい座席には乾いたお米がくっつき、結露した水滴が頭に垂れてくるビーマンバングラディシュ航空は無事にバングラディシュの空港に到着した。

空港についてすぐのトラブルは、「荷物はネパールまで出てこない」と言われたことだった。私はパスポートとお菓子くらいしか手に持っていなかったし、何よりもコンタクトレンズが外せないのは困った。困っていると5,6人が囲んできて「バスタオルを貸してあげる」とかいろいろ助けてくれた。そのうちの一人が説得してくれたお陰で、油で汚れた床をおそらく引きずられてきた私のミレーのザックは真っ黒になって手元にやってきた。
西遊旅行にもらったピンクの紙切れを見せると、空港の職員が自分に着いておいでと合図をして、裏口の方から空港を出た。空港の外にはもうすぐ夜の12時だというのに地面に寝そべった子どもや裸の赤ちゃんを抱いている子供がいて何が何だかわからなかった。空港の職員と一緒に歩いている私は何も言われなかったけど、すごい視線を浴びながらタクシーに乗った。空港の職員がタクシーの運転手に何かを告げ、私とザックは後部座席に乗って車は動き出した。タクシーの運転手はただただ無言で運転し、空港を離れるとあたりはすぐに真っ暗な田舎になった。

「いったいどこに行くんだろう」そんな風に思ったけど、制服を着た空港の職員が指示したんだから大丈夫だろう、それだけが頼りだった。タクシーはかなり走り、何かあっても歩いて空港に戻れるような距離ではなかった。そんな心配をよそに、タクシーは普通にホテルに着き、普通にチェックインした。はぁ長い一日がやっと終わったと思った頃、部屋にさっきの空港の職員から電話が入った。今から遊びに行ってもいいか?今からがダメなら、明日はどうだ?観光に連れて行ってあげたい良いところがある、みたな。

ぎぇ~なんなんだ、こんな時間に。しかも部屋の番号まで知ってるし。私はドアにチェーンもかけた。
「空港の職員なのに?」頭はハテナマークでいっぱいだったけど、これはこの人に限ったことではなかった。翌日のホテル清掃のお兄さんは自分の持っているネパールルピーとドルを交換してくれって言ってくるし、その後町でしゃべったお兄さんは「あなたはバングラティシュの大事なお客さんです。時間があればもっともっといい場所を案内したい」とか「できればたくさんプレゼントを送りたい」とか言っていた。戻る時に泊まった場所でも、歩けば10人位の子供がついてきたり、「数学の先生」と名乗るおじさんは「自分もネパールに付いて行きたい」「日本に、バングラディシュまでの飛行機のチケットを送れば、またうちに遊びに来てくれるか」と言ったり。とにかく大歓迎をうけ、ある人には店でチキンとコーラをごちそうになり、数学の先生のお家では娘さんがサリーを着せてくれて写真を撮ったりなんかもしてしまった。

バングラディシュでサリーを着せてもらう

不思議な国、バングラディシュ。平和的ではあったけども。なかなか行かないだろうけど、またいつか訪れてみたい国の一つ。とっても親近感を持った。

とにかく、ちょっとしたトランジット(飛行機の乗り換え)のはずがずいぶんと神経も遣い、カトマンズに行くまでにすごく疲れた。ゆかりちゃんとは会えるんだろうか。