初心者のための登山とキャンプ入門

大雨の下山と、来ない飛行機

トレッキングの終わり ルクラにて

1998年6月、22歳の女子2人のエベレスト街道トレッキング日記15~21日目。シェルパの村クムジュンでとうとうイエティの頭を見物。そしていろんな懐かしい顔に出会いながらも土砂降りのルクラへ。帰国のチケットを買い直すお金もない貧乏学生はただ募る焦りで飛行機を待った。

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人の生活がある村、シェルパの村クムジュンへ

15日目、6月18日。

朝5時半に起きた。晴れていて、目の前には大きな山が見える。7:30にはドーレ(4040m)を出発する。

干したのに乾ききらなかった洋服をザックに括りつけて出発する。4000mあたりからは木が本当に大きい。ラリグラスが咲き乱れ、たくさんの滝が出てきて山が潤っている。まるで日本の山のようだ。

エベレスト街道 ドーレ

8:40にはポルツェに向かう橋を通過し、直後にポルツェテンガの町を過ぎる。

ここらへんあたりからずっと、濃い霧が続いた。その中を1時間以上も続く登り坂を登っていく。ヤクのフンも標高を下るに従ってたくさん増えてきて、みずみずしくなってきた。濃い霧で前が見えないせいか、大きなフンを2回くらい踏んだ。

10:10、やっと上り坂を登りきり、Mong(3973m)の村で休憩。一瞬空が晴れてキレイに見えたかと思うと、またすぐに霧に包まれた。

11:40、クムジュン(3790m)の村に着いた。憧れの地の一つ、シェルパ族の村だ。この時も一面が濃い霧で見晴らしが効かないからロッジを探すのが一苦労だった。

ゆかりちゃんは15日目にして、ここで初めてホットシャワーを浴びた。ホットシャワーというのはいろんなタイプがあるけど、ここでは庭のようなところに設けられた板に囲まれた中でバケツ一杯のお湯を与えられて浴びる、というもの。上にあるタンクのようなところに入れてコックをひねって穴から出てくるシャワーを浴びるタイプもあるようだけど、今回のは赤い20Lくらいのバケツとヒシャクがぽんと置かれていた。

たしかに、「もうそろそろシャワーを浴びてもいいだろう」っていう感じの気候にはなって来てはいた。それなのに私はどうかといえば、その箱の中で服を脱いだり濡れないように服を着てっていう作業もめんどくさかったので、ホットシャワーじゃなくてホットウォーターを洗面器に一杯もらった。そこに頭全体を長々と浸してお湯で洗い、15日間分の汚れを落とした。それでもドライヤーがないし、やっぱり寒かった。

トレッキング中洗わない頭はどうしていたのかというと、こんな感じ。油っぽくなってくる髪をコームでとかし、というよりもかゆくなってくる頭皮を手が汚れないようにコームでかき、後ろにゴムで一つに結ぶ。空気も乾燥して寒くなってくると一つに束ねてしまった髪は臭わないし、なんとも気にならなくなる。ただし2日目以降からは常に帽子を脱ぐことはしなかった。そして寝るときに唯一帽子を脱いで髪をほどき、朝起きるとすぐに束ねて帽子を被る。そんな感じだった。

ロッジの目の前には学校があって、子どもたちは1時から2時の各家庭での昼ごはん休憩が終わって、学校に再登校するところのようだった。私達も見学にいった。
今日の午後はバレーボールの大会ような様子で、試合をする子、ギャラリーになる子、走り回って勝手に遊ぶ子、みんな自由に伸び伸びと楽しそうにしていた。子どもたちは本当に可愛かった。私達は勝手に校庭の中に入って見ていたけど誰も気に留めることもなく元気に遊んでいた。

クムジュンは他の村と少し違う気がする。これまで訪れた他の村にも人が生活しているんだけど、どこかちがう。病院や学校があるという違いだけ、といえばそれまでなんだけど、他の村はロッジなどが中心でエベレスト街道のトレッカーのための村というか。でもクムジュンはシェルパ族の村ということで、子どもたちもたくさんいるし、なんというかここで小さな世界が成り立っている感じだ。きっとほとんどの人がトレッキングや登山に関わった仕事をするのだろうけど、普通に町があって勉強道具を手にした子どもや普段着の若者を目にすると、すごく興味が湧いてしまう。例えて言うなら、観光地で観光客向けの土産物屋や観光施設ばかりをみるのと、現地の人が行く喫茶店や普通の生活のある町を見るような、そんな違いだろうか。

エベレスト街道 クムジュン

荷物も片付けてヒマになった私たちは、再びケーキやパンを求めて町中をさまよった。霧が時折晴れると、クムジュンの村は想像するよりも大きいことがわかった。

そんなに大きな村なのに、ケーキ屋さんは無かった。残念だ。
外国でこういう素朴なすてきな町で美味しいものが無いところに来るたびに、それならば私がスイーツ屋さんをやろうか、と思ってしまう。普通のショートケーキやクッキー、ついでにたこ焼き。自分の好きなモノを好き勝手に売る。そんな時、かならずみんながおいしいおいしいと言っている姿が頭に浮かんでいる。まぁそううまくは行かないんだろうけど。とにかくケーキやパンはなかったので、またビスケットやチョコレートなどのお菓子を買い占めてロッジに戻った。

ここのロッジは家族で経営しているせいかあまりフレンドリーではなく、居心地の悪かった私達は部屋に戻っておしゃべりしまくった。

夜9時頃寝ようと思ったら掛け布団が無いことに気がついた。これは寒そうだと思ったけどすでにロッジの人たちは寝ていた。仕方ないので部屋中のシーツをはがして掛けて寝た。

イェティの頭とヒラリー

16日目、6月19日。

朝7:30頃目が覚めると、思ったよりも寒くなくてシーツだけの掛け布団でもぐっすり眠れたみたいだった。顔を洗いに行くと、なんとなく暖かい感じさえ覚えた。でもやっぱり霧は朝から濃かった。

朝食を済ますと、お寺(ゴンパ)へイエティの頭を見に行くことにした。

霧の濃い中、何度も何度も道を尋ねながら畑の間の細い道をウネウネと歩いて行く。まるで日本の田舎のような道で、何が違うかというと車がないことだ。もう一度行ってみたい、と思うくらい長閑だった。

聞いたとおり上の方へ上の方へと歩いて行くと、やっと派手なお寺に辿り着いた。そこにはおばあちゃんがいて、イエティが見たいとお願いすると鍵を開けてくれた。中は古く、たびたびネパールで目にする ”ブッダズ アイ” が書かれていたが、ここのは目がぱっちりしたタイプでかわいらしかった。

イエティの頭は学校の先生のロッカーのようなものに入れられ、さらに手作りっぽい感じのガラスケールの中に入っていた。そして頭はどんなだったかというと、とんがった感じの頭皮の一部に長い毛が生えていて、オラウータン用に作ったカツラの一部のようだった。おばあさんはガラスケースに手垢が付くのをやたら気にしていた。私達はお礼に寄付を払った。たくさんの外人がこの頭皮を見にやってくるという。とにかくイエティをこの目で見た私達は、気が済んでロッジへ戻った。

帰りにもう一度学校を見に行った。この学校は、エベレストに初めて登頂したとされるエドモント・ヒラリーが建てたものだ。慈善団体を設立して学校、病院だけでなく水道の設備も整えたという。当時私は、そういった、先進国から後進国の開発支援の事例、とくに個人によるものが広く世界でなされている事例などについて全く知らなかったので、「エベレストに初登頂した人が学校や病院まで作った」、ということにいたく感動した。なんて素晴らしい人なんだ!と。だからクムジュンに行くことをとても楽しみにしていたし、 ”ヒラリーが建てた” というプレートや銅像を感動をもって写真に撮った。
それがなくても ”シェルパ族の村” というだけで絶対にクムジュンには寄りたいという十分な理由になった。それくらい “シェルパ”、”ナムチェ” とかっていう言葉は私のなかで漠然とした憧れのものとしてあった。

それにしても、ヒラリーが登頂したのが1953年で、ここに学校を建てたのが1960年。それから約40年を経た当時でもこのように人が笑顔で暮らし、素朴さや美しい自然が残されているということは、きっとすごく適した支援ができたってことなんじゃないだろうか。まぁどんなことに困っているのか直接聞いたわけじゃないからわからないけど、きっとこの美しい自然と素朴な人々に支援を行うにあたっては、支援がそれらを破壊するんじゃないかという反対もあったんじゃないか、と勝手に推測した。でも、素朴さの残るすごく良い村だった。だからヒラリーも満足しているんじゃなかろうかと思った。

懐かしい人達とナムチェで再会

12:15頃、クムジュン(3790m)を出発し、今日はシャンボチェ経由でナムチェへ向かう。

霧で視界が真っ白の中を、ロッジのおじさんに言われたとおりに歩いて行くと、いつの間にかお花の咲く草原へ出た。ゆかりちゃんと「森のくまさん」を歌いながら歩いて行った。

やがてまた道が左右に分かれたので、歩いてきた人に訪ねようとすると、なんとなんと、それはロブチェのダイだった。ゾンラの手間で別れたあのダイが、今度は米を担いでやってきた。明日のナムチェでのバザーのためにやってきたという。そして今は、ナムチェからエベレスト・ビューホテルへのお届け物を持っていく最中だったらしい。あまりの驚きとうれしさでとってもたのしくなった。そして一緒にエベレスト・ビューホテルへ行った。

エベレスト・ビューホテルは、これまで見てきた建物とまったく違って、まるで美術館のように天井も高く木の作りで素晴らしかった。日本人が建てた、と聞いてとても驚いた。一泊3万円する、とその時聞いた。
天気が良い日は、エベレストも含めヒマラヤが全部見えるという。しかもここシャンボチェへヘリコプターで来れてしまうと聞いて、なんだか突然の文明の利器というか清潔で高機能な都会の暮らしが目の前に現れて、魔法にあったかのような不思議な気分だったし、同時に長らく風呂にも入っていないしお金も持っていない自分がいてはいけない場所のような、そんな気持ちになった。

エベレスト・ビューホテルを出発するとふたたび霧がすごくて一寸先は見えないという中を歩いて行き、気が付くとそこはナムチェだった。なつかしい。
道端でラクパ・ゲルブさんに会った。前にナムチェに泊まった時にロッジにいた、すごい伝説のシェルパのおじいさんだ。「元気だったか、今ホテルは空っぽっで貸し切りだぞ」と言われ、他のところへ泊まろうと思っていたけどまたゲルブさんのホテルへ泊まることにした。

ホテルに荷物を置いて外をうろついていると、ゾンラのロッジを切り盛りしていたいきのいいお姉さんやロブチェで会った兄ちゃんたちなどに次々と会った。みんなバザーのためにナムチェへ来ているらしい。懐かしい面々に数日ぶりなんだけどこんな異国の地の山奥で会うと、まるで旧友だったかのような気分になってうれしくなった。

夜はまた映画を見に行った。通路にまで人が座るほどの盛況ぶりで、相変わらず大盛り上がりだったにも関わらず、単純で長い映画は眠い身にはつらい以外の何物でもなかった。やっと解放された気分でクンビラホテルに戻ると、即効寝た。

一気に下り、雨の中へ

17日目、6月20日。

朝5:30に起きる。今日も霧だ。朝食を食べるとバザールへ散歩に行く。もしかしてミンマがナムチェに来ているかも、と思って探したけどいなかった。なんだか今日のバザールは賑わっている。

ロブチェのダイに再度お別れをして、8:30にナムチェ(3440m)を出発し下り始めた。

あっという間に下り、9:20には大きな川の合流地点である橋へ。
ほどなくしてJorsale(2805m)も通過。再び橋を渡り、9:40にはチェックポストへ。ここでクーンブエリアを出てしまった。あっけない。トレッキングの終わりも目の前に近づいている事を実感させられる。ここで休憩して、バザールで買ってきたチーズとビスケットを食べた。

10:10にモンジョ(2835m)を通過。来た時に泊まったホテルにミンマのことを訪ねようと思ったけど、鍵がかかっていてすでに店じまいをしたようだった。

チュモアを通り過ぎると、10:40再び橋を渡り、Benkar(2905m)の村を通り過ぎる。
そのあと30分ほど歩くと、行く時に見た滝に出会った。なつかしい。来るときに、「帰りに一緒に泳ごう!」と約束した滝だ。

私達はよろこんで登山靴を脱いだ。二人で頭から滝に打たれる覚悟で近づいたけど、やっぱり思ったよりも冷たい。あと一歩というところで退散した。そんななかネズミが滝登りしているのを発見してスゴイスゴイと盛り上がった。

ゆかりちゃんの記録によると、この滝壺で一度もシャワーを浴びていない私が最終的にはパンツまで脱いで体を洗っていたらしい。本当だろうか。このことだけは私はまったく覚えていない。それくらいオフシーズンで人っ子ひとりいなかったっていうこともあるだろうし、もしかしてゆかりちゃんのイタズラで意図的に捏造された事実かもしれない。
ともあれ、そんな横でゆかりちゃんは水の音に癒やされながら日記を書いた。そして私達はこの滝でで1時間もすごし、残り少なくなった旅を楽しんだ。

12:15に出発し、10分後にはGumilaの村を、12:45には橋を渡り、やがてパクディン(2652m)に着いた。ここでは、最近のお昼ごはんの定番となりつつあったポテトチップス(日本で言うフライドポテト)とレモンジュースを飲んだ。

パクディンを1:40に出発すると、Chuthrawa(2591m)を2:20に通過。岩岩を登って行くとやがてGhat(2492m)を通過。たくさんお寺(ゴンパ)の旗が立っていた。そしてここら辺から小雨が降り始めた。 

3時頃に橋を渡ると、この頃から雨が更にひどくなった。
歩けそうといえば歩けそうだ。日本での夏合宿を思えばなんてことない。暖かいし。がんばってルクラまで行っちゃってもいいし、泊まっても良いし、どうしようと相談した結果泊まることにした。

ロッジに入ると、布団が気持ちよくてふたりともすぐに寝てしまった。一眠りして気づけば夜の7:30で外は真っ暗。夕食を食べに行くと、ロッジのスタッフのみなさんは既に寝ていた。申し訳なかったけど腹ペコだったのでドンドンとドアを叩くと、起きてきてくれた。
ふたりとも手のかからないものを注文する。紅茶の小さいポット、ポテトチップスなど、そして塩やケチャップや砂糖やグラスを借りて部屋へ戻って食べた。窓の外では土砂降りでびっくりした。ロッジのおじさんはいい人で、寝ているところを起こしてしまったのに嫌な顔ひとつせずに作ってくれた。

仮眠をとって元気になった私達は自分たちの部屋で作ってもらった食事を食べながら、チョコレートとお菓子をテーマにして語った。このテーマで2時間くらいは語りあった。ゆかりちゃんの日記には「語れば語れるもんだ」と書かれていた。

ルクラで、一日中雨

18日目、6月21日。

朝5時頃に起きても大雨が降り続いていた。しかも川も増水してゴーゴーと大きな音をたてていた。とりあえずルクラの近くまで来ておいて良かったと思った。クムジュンの時点でも、フライトは3日間キャンセルになっているという話を耳にした。私達のフライトは明日の予定だけど、無事飛ぶのだろうか。

朝ごはんを食べているうちに雨も止んだので、出発することにした。Ghatの近くの村を8:30に出発。今日も霧が出ていて、空気が湿っていて歩きやすい。Choplungを9:20に通過。村ではおじいさんのお葬式をやっていた。

そして気が付くとルクラ(2800m)の町へついていた。10:30だ。
霧のせいか町全体、山全体が湿っていて、植物も青々としていた。

ミンマと約束していたナマステ・ロッジに行く。しかしミンマは居なく、来そうにない予感がする。雨も降っていて、外をウロウロしてみたりするものの、外界を目の前にした身としては退屈だ。

ホテルに戻ってランチを食べていると、フライトがキャンセルになって待っているネパール人2人も居た。彼らもとてもヒマそうだった。聞くと、もう6、7日も飛行機は飛んでいない、という。立山で夏はバイトをしているというネパール人ももう16日からフライトを待っているんだという。いよいよ事の重大さを痛感せざるを得ない。ゆかりちゃんは大丈夫だけど、私は24日のフライトでカトマンズからバングラディシュへ飛ばないといけない。安いチケットだから変更もできないだろうけど、それまでに戻れなかったらどうなるんだろうか。

3時に航空会社のオフィスに行くと、意外にも明日9時にフライトがあるという。戻る途中、ロブチェで会った弾丸トークのチリンくんと遭遇した。彼とはまたどこかで会う予感がしていた。彼はお兄さんと一緒に2日前にルクラへ来たそうだ。雨の中、一緒に少し町をウロウロした。

フライトチケットのリコンファームという仕事も終わった私達はまたヒマになり、ホテルに戻ってまたトランプをした。フライト待ちでだらけているネパール人とおしゃべりもした。この日は夜中までずっと雨だった。

ミンマとの再会、無事の帰国。

19日目、6月22日。

今日は雨も降っていなくて、くもり。雨の降っていない時くらい飛行機よ、飛んでくれーとぶつぶつ文句を言っていると、窓の外では荷物を取りに外人たちがホテルへ急いで戻っている。ヤッタ~とゆかりちゃんと大喜びした。8時にルンビニエアラインの飛行機が来るらしいのだ。

ゆかりちゃんはカトマンズの家の人に電話をしにいった。そしてその帰り、ショックを受けてフラフラになって戻ってきた。誰かから、飛行機は途中で引き返したとの情報を得たらしい。しかしちょうどその時、なんと、もう会えないと諦めていたミンマがひょっこり現れた。私たちは大興奮でミンマを迎えた。ミンマは私たちに、また新しい別のペンダントヘッドをくれた。それは筒型で、土器のような素材で焼かれたものに黒字に模様が描かれて、ツヤツヤのコーティングがされたものだった。

ミンマがお別れにくれたペンダントヘッド

このあと皆で楽しく過ごしたことはまちがいない。

20日目、6月23日。

結論から言うとこの日もフライトは無く、ルクラで過ごした。特に変化も無い日だったけど、唯一覚えているのは虫にいっぱい刺されたこと。私はトレッキング中ずっと靴下を履いていたけど、いい加減暖かくなってきたのでこの日は脱いで寝た。すると、ジャージを着てすぼまった足首から下だけ、細かい虫にいっぱい刺されていた。きっと寝袋も脱いで寝たんだろう。考えるだけでも痒くなってしまう話だ。

21日目、6月24日。

そしてこの日、とうとうフライトがあった。やった~やった~とバンザイをしつつカトマンズへ戻り、私たちのエベレスト街道トレッキングは終わった。

私は無事、その日のカトマンズ発バングラディシュ行きの国際線に乗り込んだ。魅惑のバングラディシュではまたもや大歓迎を受けたけど、こういう環境に慣れたのか飛行機に無事乗るとう大仕事が無事済んだからなのか、行くときよりも心おだやかに観光できた。

バングラディシュで

食べなれない味のはずのカレーも「おいしい」と感じた。ただ、ルクラで刺されたダニらしきものの無数のプツプツが、長いフライト中かゆくてたまらなかった。

なんとか単位は落とさずに卒業できそうなものの、同期の仲間はすっかり就職活動も終えたか、必死に取り組んでいる最中だった。
ネパールへ行ってきたという自分の中の大きな歴史を作った満足感はあったものの、就職を決めなきゃいけないという課せられた宿題は変わらず待っていた。すぐにそんな気になれない私は右往左往して卒業間近の2月に就職を決めた。「年貢の納め時」のような気分で。
しかし大学4年生というすべてが最善のタイミングでネパールに行けたとすごく満足に思っているし、なによりもゆかりちゃんが突然誘ってくれたことにも本当に感謝している。

ぜひぜひ読んでくれたみなさんも、少しでも興味があるのなら多少お金や休暇のやりくりを無理してでも遊びに行って欲しい、そんなふうに思います。