初心者のための登山とキャンプ入門

荒川岳(悪沢岳)登山 三伏峠から荒川岳・中岳避難小屋へ。南アルプス縦走②

小河内岳避難小屋と荒川東岳(悪沢岳)

2012年9月の15日から5泊6日で南アルプスを縦走しました。縦走のコースは塩見岳から入って聖岳までです。このページでは縦走2日目に登った荒川岳の情報や翌朝ピストンした悪沢岳の参考タイムや地図などを紹介しています。また水場の情報や宿泊した中岳避難小屋、料金の事なども書いています。

荒川岳登山の情報

荒川岳登山の地図
この日歩いた、三伏峠から中岳避難小屋までのコースが赤色です。
前日はピンク、翌日は青色の線で示しました。
  • 所在地:静岡県静岡市葵区、長野県下伊那郡大鹿村
  • 山域:南アルプス
  • 標高:3141m(悪沢岳)
  • 百名山No:83

荒川岳登山(翌日のピストン含む)の概要

標高差や距離はカシミール3Dというアプリケーションを使って計算しています。また記載している数字はおおよそのものです。

日付 2012年9月16日(日)~17日(月) ※17日の翌朝に荒川東岳ピストン
登山コース 三伏峠 - 小河内岳 - 荒川前岳 - 中岳 - 中岳避難小屋 - 東岳 - 中岳避難小屋
距離・累積標高 三伏峠 → 中岳避難小屋:12km(+1360m, -890m)
中岳避難小屋 ⇔ 荒川東岳(悪沢岳):3km (+. - 389m)
宿泊場所 中岳避難小屋
水場 三伏峠、高山裏避難小屋、高山裏避難小屋から荒川岳へ20分ほどの細い水場。三伏峠小屋、中岳避難小屋で購入可能。
トイレ 三伏峠小屋、小河内岳避難小屋、高山裏避難小屋、中岳避難小屋

三伏峠 → 中岳避難小屋の参考タイム(山と高原地図より)

三伏峠小屋 0:00
烏帽子岳 0:55
前小河内岳 1:45
小河内岳 2:30
大日影山 4:05
板屋岳 4:45
高山裏避難小屋 5:35
小広場 6:55
荒川前岳 8:50
荒川中岳(中岳避難小屋) 9:00

中岳避難小屋 ⇔ 悪沢岳ピストンの参考タイム (山と高原地図より)

中岳避難小屋 0:00
コル 0:30
荒川東岳(悪沢岳) 1:30
コル 2:05
中岳避難小屋 2:45

山小屋料金(宿泊費、食事、水、トイレなど)

小河内岳避難小屋

小河内岳避難小屋
  • 営業期間:7/16 ~ 8/25(営業期間外は冬期避難小屋として無料開放)
  • 宿泊料金:素泊まり寝具付き、5000円、素泊まり寝具なし4500円
  • 軽食(レトルト、カップ麺)、飲料販売有り
  • トイレ有

高山裏避難小屋

高山裏避難小屋
  • 営業期間:7/16 ~ 8/25(営業期間外は冬期避難小屋として無料開放)
  • 宿泊料金:素泊まり寝具付き、5000円、素泊まり寝具なし4500円
  • テント場代:一人600円
  • 軽食(レトルト、カップ麺)、飲料販売有り
  • 水場有り
  • トイレ有

中岳避難小屋

中岳避難小屋
  • 営業期間:7/16 ~ 9/30(営業期間外は冬期避難小屋として無料開放)
  • 宿泊料金:素泊まり寝具付き、5000円、素泊まり寝具なし4500円
  • 軽食(レトルト、カップ麺)、飲料販売有り
  • トイレ有

荒川岳登山の参考地図・資料

山と高原地図 塩見・赤石・聖岳
日本百名山登山ガイド・下

静岡市・伊那市のお天気

リンク

荒川岳(悪沢岳)登山日記 -南アルプス縦走②-

北尾くんとの別れ

2012年9月16日、日曜日。朝3時半、三伏峠小屋。
僕と北尾くんの向かいで寝ている学生団体の目覚まし時計が「ジリリリリ!」と大きな音を立て、目が覚めた。眠い。もう一度目をつむり寝た。先ほどやっと、深い睡眠に入ったばかりなのだ。しかし次に目を覚ましても4時前だった。もっと寝ていたかったが、宿舎の電灯も点きそれはかなわなかった。どうやら起きる時間だ。

僕はどんな感じで寝ていたのだろうか。飛び飛びで記憶があるから、ずっと浅い眠りの中でウトウトとしていた様な状態だったかも知れない。不完全ではない眠りにがっかりもしたけど、昨日の19時過ぎから今まで布団に入りっぱなしなわけだから体力はかなり回復しているはずだ。うん、思ったより体は軽い。
昨晩、隣の北尾くんはぐーぐーと大きないびきをかいて寝ていた。「良く寝れました?」と尋ねると、「うん寝たよー」との事だった。うらやましい。

4時に朝食、という話しだったので食堂の前で朝食待ちをした。こんなに朝早くだと言うのに沢山の人が既に待っていた。朝食を作る人はいったい何時に起きているのだろうか。
しばらく待つと、「4時はボランティアの方が食べるので食べられませんよー」的な事を山小屋のスタッフが皆に伝えた。するとそこで待つ人はぞろぞろとその場を離れていった。

4時30分にもう一度食堂にやってくると、今度は無事食事にありつくことができた。おかずは簡単なものだったけれど、温かい味噌汁もお茶も飲めて嬉しかった。ごはんもお代わりができた。味付け海苔を食べきれなかったので迷っていると、「行動食に持っていけば?」と北尾くんが言ったので持っていく事にしたが、結局それは最後まで食べることはなかった。そしてやっぱり北尾くんは誰よりも早く食べ終わっていた。もっとカミカミしないと。

三伏峠小屋の朝食

宿舎に戻り布団を畳んで荷物をパッキング。僕は水を持っていなかったから北尾くんが1リットルほどの水を分けてくれた。しかしそれだけでは心細いので山小屋で水を買った。料金は500mlで300円、2リットルで600円。僕は1リットルが欲しかったけど、ゴミが出るのも嫌なので500mlの水を買うことにした。不安だけれど仕方がない。少し歩けば水場だけれど、それもめんどくさい。

そしてとうとう、北尾くんとのお別れの時間がやってきた。
北尾くんは思ったより温かみを持った人間だったし、昨日はなにかと助けてもらったので少し心細さを感じた。もう少し一緒に旅ができたらなあと思った。
でも僕と北尾くんは約束した事があった。僕が無事に光岳を登ったら、僕が帰りに利用するであろう、静岡県の「井川駅」に北尾くんが車で迎えに来てくれると言うのだ。

この約束はとても嬉しかった。楽に帰れるなあと言うのじゃなくて、一緒に登山をしていた人とまた縦走の最終日に会える、と言う事がとても素敵に感じた。 旅をしているとまれにあるけれど、出会った旅人と「~でまた会おうぜ」と約束をして別れる。そしてそこを目指してまた旅をする。そんな時ってすごくわくわくして楽しいけど、北尾くんとまた再会する事を考えると同じ様にわくわくとした。残りの6日間無事に登山をし、そして北尾くんとまた会うのだ。そしたらどんな登山を僕がしてきたかをいっぱい話そう。そう思うと、北尾くんとの別れも素敵なものに変わった。

5時。空にはまだ無数の星が輝いている。
僕らは握手をすると三伏峠を離れた。北尾くんは鳥倉の駐車場を目指して東へ、僕は今日の目的地、荒川岳を目指して南へと進んだ。

早朝の三伏峠と北尾くん
やっと長袖長ズボンになった北尾くん。

烏帽子岳へ。クマが怖い。

ヘッドランプの灯りを頼りに真っ暗な樹林帯を進んだ。もうここに三伏峠の賑やかさは届かない。そして僕の後を、前を歩く人もいない。このまま進むと僕はどこに行ってしまうのだろうか。暗闇の中で一点だけをみつめて歩いていると、ふとそう思った。昨日は近かった分岐までの道は、今日やたら長く感じられた。

樹林帯を抜け水場と烏帽子岳への分岐にでると、世の中は少し明るくなっていた。ヘッドランプを頭から取りザックにしまうと、今度は烏帽子岳へ向けて一歩を踏み出した。期待と不安の混じった一歩だ。今日からは新しい道を歩く。

分岐を南に折れる。すると突然道は細くなり、期待はどこかに吹き飛び不安が100パーセントになった。一人になって心細いんじゃない。クマが怖いんだ。まだ辺りが薄暗いもんだから、今突然クマに出てこられると少し困ってしまう。
僕は慌ててザックを降ろすと熊ベルを取り出し、ザックに装着した。それでも不安が残ったので手を数回「パンパン」と大きく叩いてみた。するとふと思い出し、ザックのチェストベルトに付けられているホイッスルを「ピー!」と強く吹いた。よしこれで安心だ。

熊ベルを「カランカラン」と慣らしながら、烏帽子岳への尾根を登る。昨日までの登山道とはちがいだいぶ細い。うしろを振り返っても誰も登ってくる様子はない。そんな雰囲気から僕は確信した。今日、僕と同じ様に荒川岳に向かう者はいないだろうと。そんな匂いがぷんぷんする登山道だった。
そして先ほどから健気に鳴り続けている熊ベル。カウベルっぽいやつだから音が非常に小さい。こんなもんで役に立つのだろうか。僕が歩いてるぞ、とくまさんにお知らせすることはできるだろうか。やっぱり「リンリン」と響くもう少し高級な熊ベルを買うべきだった。うるさいけれど、いざという時はうるさい熊ベルでないと困ってしまうのだ。

烏帽子岳への急登をしばらく登ると、北には昨日登った本谷山が顔を出した。そしてその奥には仙丈ヶ岳と、まるで雪をかぶった様な甲斐駒ケ岳が見えた。
西を向くと伊那や駒ヶ根の町はは雲海で覆われている。しかしその奥には中央アルプスの皆々様が雲から顔出し、その遥か遠方には北アルプスが顔を出している。
そして南には富士山も大きく見えた。日本の山トップクラスのお出ましだ。素晴らしい天気だ。

烏帽子岳から中央アルプス、北アルプスを望む。
左手は中央アルプス。右の奥の方は多分北アルプス。
槍の肩の小屋の窓ガラスかな?わからないけど、光を反射してものすごい光っていた。

5時45分、烏帽子岳の山頂に到着した。チョー気持ちいい。
素晴らしい朝だ。太陽は完全にその姿を現し世界を真っ黄色に染めている。頭上には雲ひとつない。そしてここに来て、昨日僕を苦しめた塩見岳をまじまじと見ることができた。その後ろには白根三山も見える。振り返れば小さく三伏峠小屋も見える。そしてこれから僕が歩くべき道、小河内岳への稜線も綺麗に見渡せる。
烏帽子岳。素晴らしい山頂だ。何もかも見渡せる。今僕はこの景色を一人占めしている。生きているって素晴らしい。

烏帽子岳山頂の様子
烏帽子岳山頂の様子

そんな高揚感でプルプルと震えているなか、僕はある事に気がついた。
僕は一人の登山を完全に楽しめている。北尾くんとの別れの悲しみを背負いながら、温かさに後ろ髪を引かれながら一人で山を登るんだろうなあ、と思っていたけどそうではなかったようだ。一人だけれど孤独は感じない。一人でもじゅうぶんに楽しい。それはきっと、北尾くんと井川駅で再会する約束をしたからだろう。また彼に再会できるという思いが僕を元気にさせてくれた。

それと今日はマイペースで登れる事もあるだろう。好きなタイミングで休憩して好きなタイミングで写真を撮れる。昨日は強行スケジュールのツアーの様なものだったから、そう言ったものは自粛する必要があった。なので今日はぶいぶんと気分が違う。ハッピーだ。ウキウキしてきた。

烏帽子岳から、仙丈ヶ岳、甲斐駒ケ岳、北岳、間ノ岳、農鳥岳、塩見岳を望む
多分、左から仙丈ヶ岳、甲斐駒ケ岳、北岳、間ノ岳、農鳥岳。手前が塩見岳。

小河内岳へ。突撃ロック。

小河内岳への稜線
烏帽子岳から見る前小河内岳、小河内岳への稜線。小さく小河内岳避難小屋が見えた。

前小河内岳と小河内岳。烏帽子岳からは行く手を眺めながら、気持ちの良い稜線歩きを楽しんだ。小河内沢の崩壊にすげえと喜び、たまには立ち止まり東西南北の眺めを楽しんだ。遠く小河内岳の山頂には小さく小屋が見える。あれはきっと、小河内岳避難小屋だろう。あそこまで僕は歩くんだ。

6時25分、前小河内岳に到着。お日様もいい感じに昇り、ここからは富士山の眺めを存分に楽しむことができた。そして小河内岳への稜線を下った。

前小河内岳から富士山を望む
前小河内岳から見た富士山。

気分が良いもんだから歌を歌おうと思った。
ふと頭に浮かんできたのが、最近テレビで聴き感激した、ザ・クロマニヨンズの「突撃ロック」という歌。

永遠です
永遠です
永遠です
突撃ロック

まったくこの景色に歌があわない。歌詞も、そして僕の声も。
それにうんざりしてしまうと、僕はもう歌う事をやめた。そしてそれ以降、歌う事自体もぱたりとしなくなった。

背の高いハイマツの迷路でクマの出現に怯えていると、見上げた小河内岳の山頂から「ヤッホー!」とやまびこが聞こえた。3人くらいの人がいるようだ。なので「ヤッホー!」と返そうかどうか迷ったけれど、彼らのその神聖な儀式をじゃましてしまいそうでやめた。それとも僕に「ヤッホー!」と言ったのだろうか。返さないとつまらない奴と思われはしないだろうか。
そんな事に悩んでいると、どうやら彼らはヤマビコの返りを諦め、僕の方に下りてくる様子だった。小河内岳避難小屋に宿泊した人だろうか。

しばらく経つと彼らに出合い、2,3挨拶を交わした。
するとすぐに小河内岳避難小屋と高山裏避難小屋との分岐にぶつかった。小河内岳避難小屋に行ってみたかったけど、少し距離もあるし面倒だしやめた。
そしてそこから2,3分登ると小河内岳の山頂に到着。イエス、良い感じで縦走できてる。

小河内岳避難小屋
色々とてんこもりの写真。富士山と小河内岳避難小屋と悪沢岳。そしてハイマツ。

7時。小河内岳の山頂ではしばらく休憩をとった。行動食のナッツやドライフルーツをポリポリとかじったりタバコを吸った。そしてこれから僕の進むべき道筋を確認したりもした。

目的地は荒川岳。小河内岳から南にドドンと見える大きな山。荒川東岳の標高は3141メートルで南アルプス南部の最高峰だ。
小河内岳から見上げる荒川岳は案外近いなあ、と思ったけど、自分が歩くべき稜線を見てえらい遠いなとびっくりした。荒川岳に向けてぐるーっとまわっているし、そしてその間にあるどの山も背が低い。しばらくは長い長い樹林帯歩きをしなければならなそうだ。そして稼いだ標高も一時お返ししなければならない。気持ちの良い稜線歩きもしばらくはおあずけだ。

小河内岳山頂の様子
小河内岳山頂の様子
小河内岳から望む荒川岳、赤石岳、聖岳
多分、左から荒川東岳(悪沢岳)、中岳、ちょっと左に前岳。
奥は多分、小赤石岳、赤石岳、もっと奥に聖岳。

高山裏避難小屋へ。銀歯。

小河内岳からは200メートルほど一気に下っただろうか。気がつくと背の高い木が日差しを遮り、樹林帯に入った。そしてアップダウンの少ない歩きやすい登山道が続いた。

「原っぱ」を歩いたり、マルバタケブキに囲まれた道を歩いた。途中途中何かのお花が咲いていた。ここいらは夏場は綺麗な事に違いない。すぐに樹林帯に飽いた僕は、目に見える花をひたすら写真に撮りながら歩いた。

原っぱ
山と高原地図に「原っぱ」と書かれているところだと思う。

そう、最近登山をして気がついた事があるのだけれど、目に見えるものに名前をつけてやると風景が変わり、そのものを見れる様になってくる。
僕は花には興味がなく、最近やっとトリカブトの花がどんなものかを知ることとなった。しかしその後、断然トリカブトは存在感を持ち、僕の目に写るようになった。やっと生命を持ち僕の世界で存在する様になった。
花、山、雲、葉、木、鳥、虫。それぞれに名前をつけてやると、そこでやっと彼らは命を持つ気がする。ぼんやりとしていたものが、一つの有る物として存在し始めるきがする。不思議な感覚だ。
だから僕は、彼らの一つ一つに名前を付け覚えてあげようと思う。そうすればきっと、彼らは僕の中で輝きを帯び始めるに違いない。

そう言うわけで、僕はひたすら写真を撮りながら歩いていた。

マルバタケブキ
マルバタケブキ(丸葉岳蕗)。今回僕の花レパートリーに加わった。トリカブトに続いて2つ目。

そう、それとこうやって写真をいっぱい撮れるのも、今日は昨日と違ってカメラの持ち方が違うのだ。昨日はずっと左肩にカメラを斜めがけをしていたから、写真を撮ろうと思ってもサッとは撮れなかったし億劫だった。しかも1.7キロが左肩にずっと乗っかっているからすこぶる重い。
ザックは重くないはずなのに、なんだか重く感じるなあ、体調が良くないのかな、と昨日はずっと思っていたけど、原因はカメラだったとやっとわかった。なので今朝からカメラは肩にかけずに、右手でずっとを持っている。疲れたら左手に少しの間持ってもらう。びっくりするほど楽だ。頑固な岩場でなければ、この持ち方で一日中歩けそうだ。

登山道、崩壊した斜面の様子
崩壊した斜面は気分転換にいい。

大日影山という山が行く手にあったから、そこで休憩をしようとてくてくと歩き続けた。散歩みたいな登山だなあ、気持ちいいなあ、なんて思いながら歩いていたけども、なかなか大日影山にたどり着かない。もう少し歩いてみようか、とがんばって歩き続けてみたものの、それでも僕は大日影山の山頂を見つけることはなかった。
「カランカラン」と背中で鳴り続けている熊ベルの音が、「南南東。南南東」と言っている様な気がしてならなかった。僕はそっちには向かっていない。
そして9時、疲れてとうとう座り込んだ。大日影山の山頂で休憩したかったけど、諦めた。

ドライフルーツをモグモグとかじりながら、iPhoneで自分の居場所を調べてみる。すると僕は大日影山を過ぎさり、すでに板屋岳の手前にいることがわかった。
どうりで少し疲れているわけだ。休まずに歩きすぎだし、知らず知らずのうちにペースも早くなってきている様だ。

適度に休憩も挟んでゆっくりと歩こう、なんて考えながらリンゴのドライフルーツをモグモグとやっていた。すると口の中に異変を感じた。
何か硬いものでも食ったのだろうか?とそのクチの中の物を取り出してみる。するとそれは奥歯の銀歯だった。

どうやら銀歯は、リンゴのドライフルーツに絡み取られてしまったようだった。すごくお気に入りのドライフルーツだったので残念。そして縦走2日目にしてピンチ。と言うのも、僕の行動食は硬いミックスナッツがメインで、それを今回は大量に持って来ている。銀歯の無い歯でミックスナッツを食べたら歯に物がつまってしまうじゃないか。反対の奥歯は以前から少し欠け既にミックスナッツが詰まっているし。参った。奥歯に物が詰まりっぱなしの登山なんて、嫌だ。不快だ。

取れた銀歯

嘆いていてもしょうがないので歯を磨き先を行くことにした。

今までと同じ様にクマに怯えながら、舌先で奥歯を掃除しながら、お花畑では写真を撮りながら歩いた。

10時20分、マルバタケブキに囲まれた高山裏避難小屋に到着した。赤い屋根が可愛らしい。
小屋の中を調査しようと入ろうとしたが、どうやら中では登山者がランチタイムに入ろうとしているところだった。中を覗いてみたかったけれど、ランチの邪魔はしたくなかったので外から挨拶をするだけに留めておいた。

水場はここから往復30分。水が少なくなっていたので汲みに行こうか迷ったが、この先の登山道上に水場があるらしいのでそこに賭けた。地図には「細い」って書いてあって怖いけど、往復30分は面倒だ。

高山裏避難小屋
高山裏避難小屋。奥に荒川岳のカール。

そうそう、高山裏避難小屋は素敵なロケーションにあると思う。山間だけれど広々と空を見上げることができるし、マルバタケブキのお花畑に囲まれているのもいい。荒川岳の紅葉も遠くに眺められる。地面が整ったテン場もあるし、水場もトイレもある。テントがあればゆっくりとしたい、静かで素敵なところだった。

荒川岳へ。「標高差約600メートルのカールの大斜面」

高山裏避難小屋からは突然の急登で面食らったが、20分ほど歩けば「細い水場」に到着した。ドキドキの瞬間だったが、山に突っ込まれた塩化ビニールのパイプからはチョロチョロと水が流れ出していた。やった。これでもう、銀歯の取れた奥歯以外の問題は解決した。

高山裏避難小屋からほど近い細い水場
細い水場

チョロチョロの水ではプラティパスを満タンにするまで時間がかかりそうだったので、それを待つ間昼ごはんを食べることにした。今日の昼ごはんはおいなりさんとしそのおにぎり。昨晩三伏峠小屋で用意してもらったものだ。丁寧に紙で包んであったし割り箸もついている。バンダナを巻いた三伏峠小屋のオヤジ達が、一生懸命握りこんでいる姿を想像しながら食べた。うまい。

人に用意してもらったお弁当を山中で食べるなんて、昔の旅人みたいで素敵だなあと思う。昔の人もこうやって、西へ東へ旅を続けたに違いない。

三伏峠小屋のお弁当
三伏峠小屋で作ってもらったお弁当。1000円。

お弁当を全部食べきって荷物を軽くしたかったけれど、もったいないので3分の1を残してザックにしまった。

ご飯も食べた。水もプラティパスに満タンになった。これで楽しく旅を続けられる。

水場からは「オオシラビソのトラバース道」が続いた、と言ってもどれがオオシラビソか僕にはわからない。多分この木だろうなあと思っても、オオシラビソの決定的な個性を見つける事ができなかった。
そしてここを歩く間に2人くらいの登山者とすれ違った。2人とも大きな荷物を背負っていたから、テントで縦走をしているのだろう。そうなると荒川小屋か千枚小屋からやってきたのだろうか。どうやら北から南へ向かう人間より、南から北へ向かう人の方が多そうだ。

オオシラビソのトラバース道
多分オオシラビソのトラバース道。

しばらくトラバースを続けクサリ場を越すと、11時45分「小広場」と思われる場所に到着した。よし、無事に前座を終えることができた。そしてここからが本日のメインイベント。「標高差約600メートルのカールの大斜面」、を登るのだ。わくわくしてきた。

荒川岳カール前の小広場
多分、小広場。

「カールの大斜面」を登り始めた。昨日の塩見岳の様になってしまうと困るから、牛のように一歩一歩ゆっくりと登った。しかしわくわくしているのは良いけど、非常に暑い。汗はだらだらと出て止まる事を知らない。ちょうど12時頃でお日様は真上でサンサンと輝いている。こんなタイミングで登る斜面ではないなと思った。今は樹林帯だからいいけれど、いずれは森林限界に入る。そうなったら体の水分が搾り取られてしまうことだろう。帽子も持ってきてよかった、珍しく日焼け止めも塗ってよかった。
そんな風にぶつぶつと言いながら急登を一歩一歩登った。

荒川岳カールへの急登の様子

12時30分頃に森林限界に入ると、目の前の視界が一気に開けた。
そして見上げた荒川岳のカールには思わず「フォー!」と叫びたいほどの美しさだった。空は青く、カールに張り付いた高山植物は紅葉し彩りが見事だった。それに今この瞬間、この景色を独り占めしているのだと思うとたまらなく幸せな気分になった。こんな見事な景色を一人で見られるなんて、9月の南アルプス、最高だ。そんなわけで、ここでカールを見つめながらお弁当の残りを食べることにした。

荒川岳のカールの紅葉1
荒川岳のカールとナナカマド(七竈)の紅葉。

おにぎりを全て腹におさめると、青空に向け再び急登を登りはじめた。
少し前から湧いてきた雲が空を多い始めたし、標高も高くなり先ほどよりは涼しく、歩きやすくなった。そして登山道も歩きやすい。ウネウネと登っているから足首に優しい。
当たり前だけれど、少し登れば確実に標高は上がっている。それにつれ景色も変わってゆく。振り返れば高山裏避難小屋も見えたし、今日僕が歩いてきた道筋を一望にする事ができた。思えば遠くに来たもんだ。

標高2800メートル。辺りはナナカマドやウラシマツツジの紅葉で美しいが、空は白で覆われその発色は弱くなった。どうやらこのままでは山頂からの眺めは楽しめそうにない。遠く西の方には人の住むエリアが見渡せた。

荒川岳カールの紅葉2
2800メートルくらいから見下ろした荒川岳のカール。

標高2900メートル。辺りは大きな岩の露出が目立ち、アルプスな雰囲気になってきた。空の雲もどんどん集まり始め、一つの大きな固まりを形成し始めていた。登山道は大きな岩を乗り越えなければならない所もあり、片手カメラでの登山は厳しくなってきた。そろそろタケコプターが欲しくなってきた。

荒川前岳から北西に伸びる細い尾根の様子
荒川前岳から北西に伸びる細い尾根。

標高3000メートル。やっとこの急登を登り終えた。いやーさすがにしんどい。それにしても、稜線上に出たというのに道標も小屋がある様子もない。うーんまだまだ先は長いようだ。しんどい。

ウラシマツツジ(裏縞躑躅)の紅葉。
ウラシマツツジ(裏縞躑躅)の紅葉。

そんな感じで疲れてヨロヨロだったけれど、稜線上を歩くのは最高に気持ち良かった。明日歩く予定の南方は、雲に覆われ眺めは楽しめなかったけれど、崩壊した山の斜面は迫力があり見応えがあった。一方東側は雲も少なく、僕が歩んできた稜線の眺めを楽しむことができた。塩見岳も遠くに見えた。

13時40分、荒川前岳に到着。標高3068メートル。疲れた。それにしてもまだ中岳避難小屋は見えない。ちらりとも見えない。そろそろ出てきてもいいんじゃやないだろうか。本当にこんなへんぴな所に小屋があるのだろうか。風で飛んで行ってしまったのだろうか、とやたら疑い深くなってきた。

荒川前岳への尾根と前岳山頂
荒川前岳への稜線上。遠くに前岳の標柱。

そこからしばらく下ると道標にぶつかった。そこには「荒川小屋」と書いてあった。「小屋」と言う文字を読むと、ついついそちらに向かって3歩ほど下ってしまった。いやいや、僕が向かっているのは荒川小屋ではない。中岳避難小屋だ。何をやっているんだろうか。頭もぼけてきた。

荒川中岳への稜線と山頂
前岳付近から見た中岳。

辺りは薄いガスで覆われ始め、遠くが見づらくなってきた。
中岳避難小屋の存在を疑いながらも稜線上を東へとしばらく進む。すると今度は中岳の山頂に到着した。それでも、そこから小屋はガスで見えない。

まいったなー、疲れたぜー、と中岳の標柱をぼんやりと見ていた。すると突風が吹きガスが一瞬吹き飛んだ。そしてそのガスの中から中岳避難小屋がぼんやりと姿を現した。

やった。すぐそこだ。無事に今日の仕事を終えることができた。

中岳避難小屋
荒川中岳から見た中岳避難小屋。

中岳避難小屋

14時。薄暗い中岳避難小屋の中を恐る恐る覗くと、中に男性が立っていて驚いた。慌てて「こちらの方ですか?」と尋ねると「はい、そうです」と彼は答えた。今夜宿泊したい旨を告げると、中におあがり下さいと彼は丁寧に答えた。

中に入り薄暗い小屋の中を見回す。避難小屋というだけあり簡素な雰囲気だったけれど、色々な物が置いてあり生活感を感じる事ができる。山小屋間でやりとりされている無線が大きな音で先程から鳴っている。入り口の台には望遠レンズの付いたキャノンの一眼レフが無造作に置かれている。通路にはスニーカーがいくつか転がっているが、登山靴は僕のもの以外にはない。今日は僕しか宿泊者がいないのかもしれない。

中岳避難小屋の様子
中岳避難小屋内の様子。ストーブが温かい。

腰を落ち着けると、管理人さんと明日の天気の話なんかをしながら宿泊代金を支払った。宿泊代4500円と寝具代、あわせて5000円。お金を支払うと「東海フォレスト」の領収書をもらった。これを持っていれば、椹島と畑薙第一ダム間の送迎バスが無料になる。

管理人さんとそんなやり取りをしながら意外だと感じていた事があった。それは彼の話し方がとても丁寧なことだ。こんな3000メートルの辺鄙なところの管理人だし、なんてったって「悪沢岳」の近くの小屋で働いているもんだから、管理人は泉谷しげるみたいな男性だろうと勝手なイメージを持っていた。どういうわけか。でもすごく丁寧な話し方をする方でとても驚いた。そう、別に僕は泉谷しげるに悪いイメージを持っているわけではない。ただなんとなく。

それと動きが機敏な人だった。背中がまっすぐピシっと伸び、立ち上がったり歩いたりする動作に無駄がなく早い。それは僕に、時代劇なんかに出てくる「旅籠の番頭さん」を思わせた。はっぴのような物を着せたらきっと似合う事だろうと思う。
そして彼はササッと立ち上がると、僕の布団を敷きに2階へと上がって行った。この中岳避難小屋は、1階はザック置き場兼食事を食べるところになっていて、2階が寝床となっている。

中岳避難小屋の寝床の様子
2階の様子。

無線は相変わらずやり取りを続けている。「軽装の登山客がそちらに向かいました。雨具も持っていない様子です。天候次第では引き返す様に指導して下さい。」と言った内容の無線のやり取りもあった。すごいなあと感心した。こうやって、山を旅する人を管理する様にしているのだ。素晴らしい。

管理人さんとお話しがしたいなあと思っていたけれど、疲れていたので2階で休む事にした。ザックは置き必要なものだけ持ち2階に上がった。

ハシゴを使って2階に登ると、誰もいない寝床は広々としてテンションが上った。どうやら僕は、独り占めする事にテンションがあがるようだ、と気づいた。
管理人さんは光が窓から入る、明るい場所に僕の布団を用意してくれていた。布団も今夜を暖かく過ごせそうなボリュームだった。けど僕はもう一枚こっそりと毛布を足した。

中岳避難小屋の寝床の様子
今晩の寝床。

布団に潜り込むと、窓からの光を利用して今日一日の日記を書いた。
試しに携帯電話の飛行機モードを解除してみると電波が入った。auの電波だ。せっかくなので、今回の登山のプランナーである姉に電話をかけてみた。

姉の話によると、台風の影響で南アルプス南部は明日からしばらく雨が続くそうだ。なので、明日は千枚岳を経由して二軒小屋ロッジの方へ下山するのもいいかも知れないね、という話になった。

さてどうしたもんか。せっかくノってきた縦走も2日目にして終了なのだろうか。雨中での登山はいささか寂しい。僕は今回、悪沢岳からの眺めや縦走を楽しみにしてきたんだ。なので進むも退くも、もったいない気がする。停滞しようか。そうだ、明日の朝には雨が降っているだろうか。それとも朝のうちは晴れているだろうか。今のうちに東岳(悪沢岳)に登っておくべきだろうか。どうしたもんだろうか。
銀歯には相変わらずギッシリとナッツが詰まっている。本日の行動食の入ったジップロックにはまだまだナッツが入っている。やっぱりナッツの減りが悪いようだ。荷物も軽くならない。さてさて、どうしたもんか。

考えるのも面倒になりノートに日記の続きを書いていると、明るくて強い光が窓から差し込んできた。少し晴れたのかも知れない。良い写真が撮れるかもしれないと思い階下に降りた。管理人さんがいたので今晩の食事をお願いすると、時間がかかるので待っていて下さいね、と彼は言った。なので僕はその間に外に出て写真を撮る事にした。

外に出ると青空が出ていた。先ほどから吹き始めた強い風がガスを吹き飛ばしている様だった。山の豪快な雲やブロッケンなどを見ることができ、束の間の晴れ間を楽しむことができた。
しかしそんな強風にも関わらず、悪沢岳にかかった雲はひっきりなしにやってきて、結局しばらく待ってもその山頂を見ることはできなかった。

中岳避難小屋2
荒川東岳(悪沢岳)
荒川東岳。3141メートル。
トイレ岳
トイレ岳。3060メートル。

小屋に戻るとまだ食事はできていない様子だった。上に戻ってもやることもないので、そのままそこで待つことにした。

先ほど宿泊で来たおばちゃんは、自分でお湯を沸かしてフリーズドライのご飯を食べていた。
彼女と少し話したのだけれど、彼女の登山コースはすごかった。僕と同じ様に鳥倉の登山口から塩見岳に登り、そのあと蝙蝠岳の方に尾根を進み二軒小屋まで下ったらしい。そこから今日、荒川岳に登ってきた様だ。一回下ってからまた登るのはそれはそれは大変だった事だろう。そして明日は三伏峠まで戻る様だ。
疲れてぼろぼろだ、と彼女は言った。そうだろうと思う。だっておばちゃんの話し方が不明瞭なんだ。
話しを終えるとおばちゃんは2階に上がっていった。疲れたから早めに休むのだろう。

レトルトご飯なのに少し遅いなあと思っていると、キッチンの方から「シュッシュッシュッシュ」という圧力鍋の音が聞こえてきた。
管理人さんに「ご飯を炊いてくれているんですか?」と尋ねると「レトルトのご飯が切れて圧力鍋でご飯を炊いているんです。もう少し待って下さいね」と彼は言った。それを聞いて僕はとても嬉しくなった。食事は売り切れました、と言ってしまえば良いのに、わざわざ手間をかけてご飯を炊いてくれるなんて。すごく幸せな気持ちになれた。ありがたい。
そして、「久しぶりだからうまく炊けるかどうか」と言っていたご飯もとても美味しく炊けていた。標高3000メートルの雲の上で、圧力鍋で炊いた美味しいご飯をごちそうになった。本当にありがたい。

そんな話もあって、食事の前や食後には管理人さんお話しをした。山小屋で使用する発電機の話から始まり、一眼レフカメラの話しもした。彼は玄関に置いてある一眼レフで、ヒマを見ては星を撮影しているようだった。古今のキャノンとニコンの話しを聞き色々と勉強になった。それに昨今のアウトドアギアの話しでも盛り上がったし、中岳避難小屋にどんな取材が来たか、なんて話しもした。僕の仕事の話しもいっぱいした。

中岳避難小屋の軽食。レトルトカレー。
レトルトだけれど本当に美味しくて嬉しいカレーだった。

すごく楽しかったのでもっと話しをしていたかったけれど、上のおばちゃんはきっと寝ているだろうから、僕も寝る事にした。

2階にあがり布団に入るとウイスキーをぐびっと飲み目をつむった。
布団の周りには荷物が散乱してぐちゃぐちゃだけど、気にするもんか。僕は幸せなんだ。この小屋に来て本当に良かった。温かい気分で夜を過ごすことができた。

そうそう管理人さん。どうやらただものじゃなさそうだ。常念岳と蝶ヶ岳を日帰りで登った話しを何事も無いように話していたし、小屋ではローファーをメインの靴として履いていた。絶対にただものじゃない。もっともっと色々な話しを聞かせてもらいたいもんだ。

おやすみなさい。

9月17日月曜日:荒川東岳(悪沢岳)へ登る

昨晩はすこぶる寒くて何度も目が覚めた。こっそりと足した毛布も効かなくぶるぶると震えた。どうやら布団から出ている頭が寒かったようで、無意識の内にネックウォーマーを巨大なバンダナの様に頭に巻き寝ていた。風邪のせいか、足の筋肉がカチカチになって起きた。岩場を踏み外す夢でビクッとして目覚めた。小屋の屋根には強い風が当たりゴウゴウと唸りを上げていた。

4時30分に目を覚ました。どうやらセットした時計のアラームで目を覚ましたのではなく、おばちゃんが荷物をまとめている音で目が覚めたようだった。2度寝をしてやろうかと思ったけど諦めて起きる事にした。
暗闇の中で毛布や布団を畳んでいるとデジャヴを感じた。はて、このシチュエーション、前にもあった気がする。

ハシゴを使って1階に下りると、おばちゃんはストーブを使いお湯を沸かしていた。管理人さんも奥から出てきて温かいお茶を入れてくれた。
トイレとタバコのために外にでると、辺りは完全に深い深い白で、大粒の雨が横殴りに降っていた。うおー困った。やっぱり昨日がんばっても登っとくべきだったかー。

小屋に戻ると悪沢岳ピストンのため荷物をパッキング。しかし決意は決まらない。カッパの上下を着込み、靴紐を締めても決まらない。さて、僕はどうするべきか。
二軒小屋に下りて縦走を終わらせるか、赤石岳へと進むか、それとも停滞か。考えても朝なもんで頭も回らないし、僕自身考えている振りをしてぼーっとしているだけだ。先ほどのデジャヴについて考えを巡らせてしまっている。するとおばさんは食事を終えると着々と荷造りを終わらせ、そして「三伏峠までがんばって行ってくるかー」、と白いガスの中に意気揚々と消えて行った。それを見て慌てた僕は、とりあえず悪沢岳に登ろう、と決めザックを背負い外に出た。その後のことはおいおい考えよう。5時40分。

中岳避難小屋の前のベンチ
予備で持ってきたコンパクトデジカメで撮影。

荷物が軽い!ザックを忘れてきたんじゃないだろうか、って思うくらいに軽い!幸せだ!けど風と雨がすごい!なんだこの天気は!
寝起きからこの大荒れの3000メートルに投げ出されたみたいなもんで、テンションが異常に高くなった。

下に降るはずの雨は横に振り、カッパに当たりバラバラと大きな音を立てていた。風は歩けないほど強いと言うわけではない。ガスも適度に風に飛ばされているので、視界は30メートル以上はきいていると思う。周りはなんの事だかわからないほど真っ白けだけど、行く先は見渡すことができる。石にペンキで書かれた「○」や「→」もよく見える。歩くには全く問題がない。
とりあえずは、コルであろう方向に向かってトコトコと下った。

そんな感じで余裕もあったけれど、しばらく歩くとふと不安になった。さて、僕は正しい方向に進んでいるのだろうか。まあ道はそう何本もあるわけではないから正しいのだろうけど、周りを見て現在地を確認できないとわかると急に不安になった。こんなガスの中で他の登山者もなくたった1人で登山をした経験はない。とりあえず、不安を解消するためにコンパスを確認。よしよし、大丈夫。俺はいけてる。

コルの付近になると細い尾根を歩く事もあり、風も強いもんだからスリリングだった。谷底の下からゴォーッと音を立て強烈な風が空に向けて吹き上がっていた。

6時になると中岳からの下りは全て完了してコルに到着。そしてそこから悪沢岳への登りが始まった。見上げるとジグザグの道が見える。昨日、中岳から悪沢岳方面にジグザグの登り道を確認できたけど、多分こいつの事だろう。

荒川岳のコルから悪沢岳への登り

急登をジグザグに登ると、そのあとはトラバースの様にして登った。あっち向いたりこっち向いたりしているもんだから、しまいには自分がどっちに向かって登っているのかわからなくなった。まあ登っているからいいんだ。どうせ正しい事実を知ったところで何も見えやしない。

そう、風邪のことだけれど、体も軽いし筋肉痛も無いし問題はないみたいだ。昨晩は布団の中で足がカッチカチになって今日の事を心配したけど、これなら昨日よりも体が軽いくらい。でも鼻水がひどい。登りになると呼吸がしづらくて困る。先ほどからずっと手鼻をしている。
手鼻に関してわかった事があるんだけど、風邪の時の手鼻は難しい。鼻水がねばっこいもんだから、遠くに飛んでもブランコの様に自分のとこへ帰ってきてしまう。それと手鼻をするなら手鼻をするぞと強い決意を持たなければならない。中途半端にやってしまえば、そいつもブランコの様に帰ってくる。本気が必要だ。

悪沢岳への登り道は両手を使わされるところもあったけれど、こんな天気の割には登りやすかった。そしてまだかなあ、景色も変わらなくて飽きてきたなあと思った頃、ガスの中にぼんやりと標柱が浮かび上がり、悪沢岳の山頂に到着した事を告げた。6時30分。

悪沢岳山頂付近の岩場

とりあえず標柱の前まで歩いて行き写真を撮ってみた。そこでしばらく「荒川東岳 標高3141M」と書かれた標柱を眺めてみた。でも何も素敵なことは起こらなかった。試しに振り返って辺りを見渡してみた。真っ白で何も見えなかった。ここは本当に悪沢岳の山頂なのだろうか。この標柱以外、自分が悪沢岳の山頂に立っているぞと示すものは何もない。ドッキリだったらどうしよう。
すぐ去るのも寂しいものなので、カッパのポケットからミックスナッツをと取り出し、風に背を向けながらポリポリと食べてみた。しかしすぐに寒くなり、僕は来た道の方へ歩いて行った。

さようなら悪沢岳。また来ます。

荒川東岳(悪沢岳)の山頂

冷えた体を温めるために、ぴょんぴょんと軽快に道を下った。すると悪沢岳に登ってくる3人組とすれ違った。彼らの顔には「ひどい天気です、参ってます。」と書かれていた。その顔がものすごくこの悪天候にあっていてムードを盛り立てた。みんな良い顔をしている。果たして僕はどんな顔をしているのだろうか。

そんな風に調子に乗って下っているものだから、ついつい道を外れてしまった。気がつけばよっしゃと腕まくりをして崖を下っていた。ほぼ垂直の崖を2メートルくらい下ったところで気がついた。はて、僕はこんな崖をクライミングしてきたのだろうか。道を外したのだろうか。それにしてもいつ道を外れたのだろう。

不思議だなあと崖の下を見つめながらぼんやりとしていると、変なところから登山者が僕の方に登ってきていた。崖の下から「そっちに道はありますか~?」なんて訪ねてみようかなと思ったけど、急に恥ずかしくなって壁に体をくっつけて身を隠した。こんな崖の下からものを尋ねるなんて恥ずかしいじゃないか。僕はものすごい体勢でものすごい所にいる。

そうやって身を隠しているとあることに気がついた。頭が少し冷静になった。
そうだ、彼は変な所から登ってきたんじゃない。あっちが正しい登山道なんだ、と。ここに来てそう理解することができた。アホだ、俺は。

彼が僕の頭上を通過したのを見計らい崖を登り返した。すると彼が登ってきた場所に普通に登山道はあった。あれれ、何でこんな登山道を見落としたのだろうか。カッパのフードを被って左右の視界がきかないせいもあったのかも知れない。それにしても見落とし様がないほどの立派な道だ。
でもこの崖、何人も人が降りている。踏み跡がしっかりとついて道を形成している。ここを下り続けるとどこに辿り着くのだろうか。地獄だろうか。こんな天気の日に道を失ったら大変だ。もうちょっと注意深く歩こうと思った。

それでもそこからはスタコラとコルに下りスタコラと登った。
そして、「あれ~、中岳避難小屋って思ったより遠いなあ」と思い始めた頃、ガスの中から中岳避難小屋はその姿を現した。無事に中岳避難小屋に帰ってきた。